新しい歯
新しい人生
当院院長の木村洋子が執筆しました『新しい歯 新しい人生』をご紹介します。
院長が出会ってきた患者様たちとの思い出を振り返るとともに、入れ歯一筋だった新人の頃から、インプラント治療やオールオンフォーを軸に据えた現在に至るまでの歯科医としての歩みをたどります。
第1回なぜるようにしか
削ってはいけない
歯科治療は日々、出会いと別れの連続です。たとえば、牧野栄一さん(仮名)。出会いは私が大きな歯科診療所の入れ歯外来担当に任命された28年前のことです。当時、新人歯科医師の私には何だか気の重い患者さんでした。
牧野さんは、ガンで近くの病院に入院中の患者さんでした。総入れ歯が痛くて食事ができないとおっしゃる牧野さんはとても慎重で、難しい患者さんでした。とにかく、「なぜるようにしか削ってはいけない」とおっしゃる。私は消しゴムを当てるようにそっとほんのすこしずつ調整しました。延々として進まない治療の日々。牧野さんがぼそりと言う「今日はこれでいい」をどんなに心待ちにしたことか。そのおしまいの合図がないばかりに、スタッフに置いてきぼりにされた私がやっと帰路につけるのは夜の9時過ぎということも珍しくありませんでした。
とある晩、いつものように治療灯に照らされたままの牧野さんがぽつり語り始めるのでした。自分は、炭鉱に連れてこられて働いていた、結婚して子供もいたけれど空襲で生き別れになっていまだに消息が分からない、今住んでいるところには風呂がなく銭湯に行く時には馬鹿にされないように背広を着ていく、云々と。知らずしらずに距離を置いていた牧野さんが、新人も新人の私にふと漏らしてくれた心のうち。それまで、私を苦しめた患者さんは、実は私を心から信頼してくれている患者さんでありました。そして痛感した自分のふがいなさ、技術が足りないもどかしさ。
翌日、私は上司に総入れ歯治療のエキスパートになる研修が緊急の課題だ、と訴えました。上司が用意してくれたのは半年にも及ぶ、私のためだけの特別研修でした。そんな上司の熱い期待を裏切るまいと必死で食らいついた私。無我夢中だった私のもとに牧野さんの訃報が届いたのは、折しも6ヶ月研修の最終日でした。
牧野さんのご期待に応えることは結局できませんでした。しかし私にとって牧野さんは患者の立場や希望を骨身にしみて分からせてくれた大切な方、歯科医師生活での最初の恩人でした。
もっとも、恩人は牧野さんお一人ではありません。歯茎がないのに硬いフランスパンを総入れ歯で常食としている「第2の牧野さん」など強者揃いの患者さん方々に鍛えられる出会いと別れの日々は、その後も果てなく続くのでした。
第2回人は歯のみに
生きるにあらず
北村正彦さん(仮名)がインプラントの治療に初めて当院を受診されたのは5年前。会社経営の、きちんとした身なりの60代男性でした。
さっそくお口の中を見させていただいたところ上あごに歯は数本しかなく、下に3本の折れた歯が残っているだけでした。入れ歯もずっと使っていない、とのこと。これだけ立派な方がなぜこのような状態のまま放っておかれたのか、私には不思議でした。やがて、ぽつりぽつりとお話ししてくださったその内容に、私は歯のことどころではなかった北村さんのこれまでの人生の一端を理解したのでした。
北村さんは、最愛の奥様が重い腎臓の病気に苦しんでおられたので、ご自身の腎臓を提供することを決断されたのでした。しかし腎臓移植はうまくはいかず、北村さんの献身のかいもなく奥様はお亡くなりになられました。加えて、ご自分には大きな傷跡と多額の借金が残りました。会社の経営こそ続けていられましたが、どんなにかお辛い日々だったことでしょう。
新米歯科医の頃から自分に言い聞かせてきた「人は歯のみに生きるにはあらず」という言葉があります。聖書の有名な一節のもじりです。私たち歯科医師はややもすると歯しか見えない。でも、人は歯を大切にするために生きているわけではない、という意味でした。期せずして北村さんの人生の一部に触れた私は、一刻も早く新しい歯を入れてあげたいと切望しました。
お勧めしたのは、手術をしたその日からしっかりと固定された歯で噛めるインプラント治療。北村さんはこの最新の治療法を上下両方のあごに施すことを迷わず選んで下さいました。手術は無事終了。その日のうちに歯が入り、すてきな笑顔としっかり噛める歯を取り戻されたのでした。
それから数年後の成田空港到着ロビー。私はラスベガスでのインプラント治療の世界大会での講演を何とかやり遂げ、日本に戻ってきた安堵のなかにいました。ふと目をやると、私のすぐ前を軽快なステップで横切ろうとされる初老の紳士のお姿が……。他でもなく北村さんその方でした。お声をかけると、ラスベガスで休暇をエンジョイされ、同じ便で到着されたとのこと。その笑顔は爽やかで自信に満ちあふれていました。
「人は歯のみに生きるにあらず」されど、ちゃんと噛めることから始まる人生もある!
歯医者になってよかった、と心から思えた瞬間でした。
第3回オブリガーダ、リスボン!
歯科インプラント専門医として私が得意とするものは「オールオンフォー」という最先端のインプラント治療法です。上あご、下あごのいずれかの歯ぜんぶ(オール)をたった4本のチタン製人工歯根で支える(オン・フォー)究極の技術。私が「これだ!」と惚れ込んだ当時、この画期的な方法に注目する日本人の歯科医師は数えるほどしかいませんでした。
そんな私ですが7年前、遠くポルトガルのリスボンで開かれたオールオンフォーの特別研修に参加していなければ、と思うことがあります。海外研修大好き歯科医ということもありますが、私にとってリスボンが特別の場所であったこともかの地での研修に惹かれた理由だったのです。
研修から遡ること1年ほど前、私は暗澹とした思いで、同じくリスボン行きの飛行機の中にありました。世界一周の船旅に出ていた母が、寄港地のひとつ、リスボンの病院に救急搬送されたというのです。
早くに父を亡くした私と私の弟2人にとって母はかけがえのない存在でした。長崎県佐世保市で、父が遺したメキシコ料理店を切り盛りしながら生活を支えてくれた母はいわばオールオンワン。「ワン」は言うまでもなく母のか細い「女手ひとつ」でありました。
その母の、70歳の引退記念にと姉弟でプレゼントしたのが90日間の世界一周の船旅。毎日届くメールで旅行を満喫しているらしい母の様子に喜んでいましたが、やがて唐突にかかった電話は船会社からの報告でした。
病院のベッドに横たわる母は想像以上に重篤でした。しかし担当医が私を見てにっこりと微笑み、たどたどしい日本語で声かけして下さった「アリガトー」に、日本からずっと張りつめていた気持ちがほぐされていく思いがしました。
「ポルトガル語でありがとうはオブリガード。似てるでしょ?日本とは古いつきあいです。私たちが付いているからもう大丈夫」
今こうして原稿を書く食卓の向こう側に母がいて、リスボンの優しい先生に救っていただいた命とリスボン仕込みの私が入れた新しい歯で微笑んでいます。九州育ちで一言多い母の口癖は、「これで値段がもうちょっと安かったら言うことなかとにね」。もちろん、今回のオールオンフォーの治療費、母には1円たりとも払わせてはいないのですが……。
ともあれ、母も私も思いはひとつ。オブリガーダ、リスボン!
第4回洋子なら、私にしたごと
良うできるさ
世界一周の船旅の途中、寄港地のひとつリスボンで倒れた母を救出に向かったことでご縁ができ、オールオンフォーという画期的なインプラント治療法に出会えたことはすでに前号で書きました。母との思い出話は、そこで一旦終わりにする予定でしたが、理由あって今回も急遽、前号の「続き」とすることをどうぞお許しください。
母は長いこと、入れ歯で苦しんでいました。結婚で遠く札幌まで来てしまったのちも、長崎住まいの母の歯だけは、自分の手でどうにかしてあげたいと願っていました。
しかし、総義歯治療一筋に研鑽を積んできた私の技術をもってしても、母の入れ歯の痛みを完全に失くすことはできず、2時間以上の調整をしても長崎に帰ってから、また痛くなったと電話で聞いては、悲しい思いをしていました。してあげたかったのがインプラント治療。しかし、勝算がありませんでした。当時はまだ、歯が全くない方のインプラント治療は大変に難しかったのです。
それでも、私は諦め切れませんでした。父を早くに亡くしたのち、女手一つで私たち3姉弟を育ててくれた母に、歯科医師の娘がいる証に素晴らしい歯をプレゼントしたい。そして、子育てと仕事以外の新しい人生を楽しんでほしい。心からそう願ったのです。
そこにリスボンでのオールオンフォーとの出会い。病気、高齢という悪条件の母でもこれならできるかもしれないと感じたとき、身体中にエネルギーが沸き立つ思いがしました。オールオンフォー研修から帰るリスボン空港で見た美しい虹に、絶対に母をこの方法で治すと誓いました。
その後、治療は見事に成功。よく笑い、よく喋る母がまた戻ってきました。昨年は母の希望で家族総出でメキシコとニューヨークに遊びました。メキシコでは、母はシュノーケリングにまで挑戦し、ハラハラさせられました。
今年は日本がいいという母の希望で四国八十八ヶ所に行き、2人で四十ヶ所を回りました。来年は残りを全部回ろうね、と約束した矢先の去る11月、母は「新しい人生」の道半ばでリスボンからの病気をこじらせ、帰らぬ人となりました。
この原稿を書き終えたら、明日も早朝からオールオンフォーの手術の患者様をお迎えします。今もどこからか母が「洋子ならできる、洋子なら明日も私にしたごと良うできるさ」と励ましてくれている気がします。
第5回また先生のところに
行っていいかい?
「先生さ、歯を治したら胃の代わりになるんだろ?」いきなりそう切り出されたのは川口正彦さん(仮名)、当時52歳。私が大きな総合病院の歯科部門で歯科医師としてスタートを切ったばかりの28年前のことです。同じ病院の外科で胃の全摘出手術を受けられた川口さんは担当医のアドバイスで、胃の代わりになる歯をしっかり治そうと決心されたのでした。
「おれはさ、もう胃がんで胃を全部とったからさ、この先長くないかも知れないけど、会社も始めたばかりだし、がんばらなきゃいけないんだよ」川口さんのそれまでの人生は仕事仕事で歯は二の次。お口のなかを一見しただけで、その場しのぎの治療を繰り返されて来たことが新米歯科医の私にも分かりました。
私は、身を引き締めて、全体的にしっかりと噛めるように治療しました。時間はかかりましたが、「これでいいな!」と川口さんは大変喜んで下さり、その後もきちんと定期検診に通って下さいました。
その後、10年ほど経って、今度はセラミックの歯で全部治療をし直すのも私が担当。その頃にはすっかり健康を取り戻していらした川口さんは、会社の業績を伸ばし、社屋も新築し、お口のなかもフル・リニューアルしたい、とおっしゃるのでした。
それからさらに十数年後、開業して10年以上経つ私のところへ1本の電話がかかってきました。川口さんでした。
「歯を抜いて調子が悪くてさ、また先生のところに行っていいかい?」
私の医院まで川口さんのご自宅からは1時間以上もかかります。それなのに今度も私を選んで下さる。歯科医冥利に尽きる、とはこのことです。「だって、歯は胃の代わりだろ?というか、俺にとっちゃ命そのものだよ」
当時川口さんは70代。52歳から一生懸命治療させてもらいましたが、歯はやはり永遠には持ちません。でも、長生きなさった分、いいこともありました。インプラント治療が信頼を得て、私もインプラント治療専門家になろうと取り組み始めていたのです。
川口さんは現在80歳。仕事もゴルフも現役の川口さん、今年は80回のラウンドだそうです。このタフな川口さんを陰で支えているのは、私が治療したインプラントの新しい歯です。川口さんのがん手術後の人生に歯科医師としておつきあいしてきた私には「歯は第一の臓器」は本当に実感できる言葉です。
第6回騙されたと思って
一度一緒に札幌へ行こう!
札幌の円山地区で開業して20年。最近では遠方からの患者さんもずいぶんと増えました。海外からではこの数年、ロシアや中国、アメリカからの患者さんがおいでですし、国内では九州からの患者さんも途切れません。生前、「ほら、娘が入れてくれたとよ」と自分の白い歯を指示してさんざん宣伝してくれた長崎の母のお陰でしょうか。
実際、口コミの効果は大きいなあ、とつくづく思いますのは、ずっと以前、オホーツク圏の斜里町から通院して下さった初めての患者さんがきっかけで、現在も同じ町内の患者さんが途絶えることなく当院でインプラント治療を受けて下さっていること。去年の夏には、病院スタッフのレクレーションも兼ねて斜里町から知床世界遺産に遊びましたが、夜は地元のお寿司屋さんで「大同窓会」となりました。
さて、深田美重子さん(仮名、69歳)も、そんな遠方組の患者さんのおひとり。泳ぐことが大好きな美重子さんにとって、息継ぎのたびに上の総入れ歯が外れるのは何とも不快なことでした。お住まいは東京ですから、大学病院や著名な歯科医の先生に次々と診てもらったとのことでした。しかし、納得のいく治療法や信頼できる先生についぞ出会うことなく、半ば諦め気分でいらしたのだそうです。
そんな美重子さんに当院を薦めて下さったのは他でもない美重子さんのご主人。仕事の関係でインプラント専門の私をご存じだったご主人が、「騙されたと思って一度一緒に札幌へ行こう!」と奥様を説得されたのです。さっそくお口のなかを拝見すると、上は歯が1本もなく、下も前歯が6本残っているのみ。
毎回ご主人が付き添われるので、「通院回数をなるべく少なく」という希望にいかに沿えるかが最大の課題でした。結果、1回目で検査診断をすべて済ませると、2回目にはもうコンピュータガイドを使ってのインプラント手術、美重子さんに最適なオールオンフォーという方法で固定した仮歯が入りました。その後、最終的に仮歯がセラミックの美しい歯に置き換わったときに美重子さんが流された涙をいまも忘れることができません。
後日、クリニックの前から乗ったタクシーの運転手さんに、「すごいインプラントの先生がいるからわざわざ東京から通っている」って、このビルの先生のことでしょう?と、聞かされました。美重子さんご夫妻に違いない!と思うと、嬉しくて嬉しくて今度はこちらが半べそでした。